YONEZO GATE

勇気と希望をもって
明日を明るくするために
米蔵門は、勇気と希望をもって明日を明るくするために、前進し続けた方々の思いを伝える場です。
あなたもここに来て、先人たちの思いを感じ、希望をもって努力すれば、明日は明るくなるという気持ちを養いませんか。
最後になりましたが、貴重な資料を提供していただいた加藤従一様をはじめ、多くの協力者の皆様、本当にありがとうございました。心から御礼申し上げます。
ここでお願いがあります。ここに飾っている方々の資料があれば、ここに飾らせていただけませんか。


私たち子孫の誇り
「米蔵よねぞう」門
建物のテーマ
「あきらめるな、今日頑張れば明日はよくなる」「自分が助けられた恩を感じるのなら、困っている人を救おう」
この門は大正15年に私たちの曽祖父、祖父に当たる吉本米蔵が建てた ものです。この当時、多くの家は藁ぶきの平屋建てでした。
2階からの景色は、近くは漁港、遠く石鎚山が見えるだけでなく、小松の果てまで見えたそうです。
米蔵10歳の時父親を亡くし、全財産を叔父2人に取られてしまいます。
まだ幼いのでいくところもなく、叔父2人の家をたらい回しにされ、こき使わました。その中の1人がひどい叔父でした。
繁忙期には呼び戻され、朝早く佐志久山(10kmほど離れたところにある)薪拾いをさせられ、それが終わったら、田植え、草引き、気に入らなかったら殴られ、蹴られ、好き放題されました。閑散期には、もう1人の叔父に預け、米蔵が困るよう細々としたことまで、生活習慣を指示します。
そのため寒くても暑くても寝る場は納屋。
夏は蚊に泣かされ、冬は寒さに泣かされ、出されるのは残飯以下。
そんな希望が全く見えない悲惨な生活を何年も1人で堪えていました。
やがて青年になると、お位牌を腹に抱き、縁起の良い保内神社の土をお守りに入れ、当地を去ります。
九州に渡り、炭鉱夫として働き、納屋頭になり、やがて大隈炭鉱を経営するまでになりました。
大隈炭鉱の炭鉱主になっていた時、周布にある密乗院という寺の檀家総代が訪ねてきます。
どうしてでしょうか。
実は、周布の密乗院は無住の寺(住職がいないこと)でした。
細川英道は密乗院で小僧として8歳から10歳まで3年間、お勤めをしました。
その後、香川県にある不動護国寺で修行を積み、りっぱに成人していました。
細川英道の素晴らしい人柄を知っていた檀家たちは住職として密乗院に招こうと考えたのです。
そこで細川英道がいる香川県不動護国寺に赴きます。
不動護国寺の住職である栂尾仲道に事情を説明しました。
その話を聞いた後、栂尾仲道は提案します。
「この子を大学に行かせるのなら」
今から120年前ですから、自分の子供も満足に学校に行かすことができていません。
簡単に言われてもそんなこと無理です。
みんな頭を抱えてしまいます。
周布に帰り、檀家たちで相談しました。
その話し合いの中で、檀家の一人がこう言いました。
「若くて亡くなった吉本清蔵さんがおったろ。あの清蔵さんの息子、今は九州に渡り、炭鉱を経営しとると聞いた。わしらと同じ密乗院の檀家やけん。お金出してくれるかも分からんぞぅ。」
「わしらじゃあっ、そんなお金無理やけん、だめでもともと、その人と仲の良かった者を探して連れて行って相談してみよこい。」
米蔵と一番仲が良かった者を連れて、九州に渡りました。
「米さん、わしじゃ」
「おー、六さんやないか、懐かしいのぅ、それでどうしたんじゃ」
「ちょっと、この人らが頼みたいことがあるそうじゃ、話を聞いちゃってくれ」
檀家の代表は緊張しながらも、今までの経緯を丁寧に話しました。
話が終わると、米蔵は、一言こう言いました。
「分かりました」米蔵はひとつ返事で引き受けます。
そのおかげで細川英道は明治42年、真言宗連合京都大学に進みます。
やがて周布村長、真言宗醍醐派管長にまで上りつめます。
さて話を戻すと、大正9年。
米蔵は、先祖代々のお墓のことが気になったのでしょう。
郷土のみんなからも頼られていることも分かり、郷里に帰りました。
郷里に帰る前、保内神社のおかげで炭鉱主になることができたことを報告し、寄付をしています。
現在も玉垣として残っています。また、いじめなかった叔父のことですが、やがて代が絶えてしまいます墓守がいなくなっても、現在も私たち米蔵の子孫が墓守をしています
米蔵は元壬生川町長・一色耕平(四阪島煙害に立ち向かった農民側の最大のリーダー)から、壬生川港の名物となるような建物を建ててくれないかと相談を受けます。
そんな無茶な相談を持ちかけられても、「よっしゃ分かった」といって建てたのが今も現存する門です。
大正15年、壬生川港のシンボルとして建られました。
私たちは縁起の良い門に縁起の良いことを詰め込もうと考えました。
■吉本米蔵孫 長野 恭子・杉本 ミハル・吉本 仁志
■吉本米蔵曾孫 安永ナヲコ・吉本 智信・吉本 栄作
■連絡先 吉本栄作携帯 080-5668-8529

明治時代末期、全国を騒がせた2大公害問題が起こります。東の足尾鉱毒事件、西の四阪島煙害事件です。
四阪島煙害事件は、農民側に賠償金を払っただけでなく、やがて完全解決します。主な原因であった亜硫酸ガスを硫酸や硫安(肥料)に変えることに成功したからです。
農民を苦しめたものを、農民がありがたがる物に変えました。煙害を最初に気づき、解決に尽力を惜しまず、賠償金で農業学校(現在の今治南高等学校)を作るよう導く加藤徹太郎は、愛媛県で最大の農業貢献者として認められていました。
大正天皇に代わり、摂政(大正10年11月25日)となられた東宮殿下(後の昭和天皇)は、大正11年、愛媛県に来られ、植樹式を行っています。
その時、お使いになった鍬を加藤徹太郎に下賜されているからです。
この下賜された鍬、その存在が公に知られていません。
そのことを伝える施設はどこにも存在しませんでした。米蔵門1Fに、こんな素敵なドラマを残すことができました
1-1金屏風「青野岩平と塩出家の結び」
「明治時代の米づくりの記憶」
煙害に立ち向かった周桑郡の農民代表・青野岩平が、結婚の折に塩出家から贈られた金屏風。
この金屏風は、明治時代の農作業が分かる数少ない郷土資料煙害が起こった当時の気配も感じることができます
1-2精錬所を製錬所に
「共存への道」
煙がもたらしたのは“富”だけではなく、“煙害”という負四阪島製錬所建設により始まってしまう煙害
それを伝える当時の新聞記事稲が弱り、米が採れなくなるかもしれない恐怖
苦しみ、悲しみ、そして怒りの感情が農民の心に終わりが見えない長く苦しい共存への道
1-3一色耕平と加藤徹太郎の願い
「このことだけは後世に」
一色耕平は、愛媛県東豫煙煙害史を出版
加藤徹太郎が残した煙害被害にあった稲の葉の標本
忘れてはいけません
2人は四阪島煙害を後世に伝えたい
1-4煙害と病虫害との比較絵・硯・書簡
「何としても解決を目指して」
煙害と病虫害の被害違いを発見するために描かれた絵図
曽我部右吉が加藤友太郎、徹太郎親子に送った葉書と手紙
一色耕平はこの硯から壬生川中の家々に書を送った解決の糸口を探る指導者リーダー、信頼された指導者

1-5契約書の調印記念写真
「農鉱併進共栄の方針で和解」
混迷する煙害問題の中、別子銅山支配人・久保無二雄を筆頭に住友側、一色耕平、愛媛県知事・伊沢多喜男の三者は“共に生きる道”を選びました
一色耕平による農民を束ねる力、住友による補償と技術改革、伊沢多喜男による公平な調停による、美しいハーモニー、農鉱併進共栄の音色を奏でながら、解決への階段を歩
1-6亜硫酸ガスを硫酸そして肥料へ日本を揺るがしたこの物語を伝える場こそ米蔵門
「公害を、恵みに変える」
住友はついに、煙害の元である亜硫酸ガスを硫酸・硫安(肥料)へと変換する技術を生み出しました
有害から有益へ
やがて住友化学誕生へとつながります
この素敵な話を残す場として米蔵門誕生
1-7加藤徹太郎の功績と植樹式の始まり
「農民の誇り、国家の誉れ」
煙害に最初に気づき、農業教育に尽力した加藤徹太郎
煙害を最初に気づいた加藤徹太郎は、愛媛県で最大の農業貢献者の一人です
大正天皇に代わり、摂政(大正10年11月25日)となられた東宮殿下(後の昭和天皇)は、大正11年、愛媛県に来られ、植樹式を行っています。
その時、お使いになった鍬を加藤徹太郎に下賜されています
この下賜された鍬、その存在が公に知られていませんが、米蔵門に保管されています
また賠償金で農業学校(現在の今治南高等学校)を作るよう導くことで学校まで誕生したのです
(今治造船創業者・檜垣正一、伊藤園創業者・本庄正則、DCMダイキ創業者・大亀孝裕、真言宗醍醐派管長・細川英道)の資料を飾っています。
米蔵門は、やる気をもって、希望ある明日を作ろうと前進を続けた方々を紹介するための場だけでなく、自分も頑張れば道を開くことができることを伝える場でもあります。
あなたもここに来て、先人たちの思いを感じ、これからの人生をより尊く生きていきませんか。
そして人を幸せにする旅に参加しませんか。
最後になりましたが、お願いがあります。
よろしかったら、ここに飾っている方々の資料があれば、ここに飾らせていただけませんか。
2-1船大工・檜垣為治から始まった今治造船の物語
「今治造船王国の原点」
ここに写っているのは、今治造船ファミリー写真。真ん中のご夫妻が、檜垣為治さんと檜垣トラヨさん。
最前列左の少年こそ、今治造船を世界の今造に導く檜垣俊幸さんです。
写真に写っている誰もが、ここから今治造船が出発することを想像できなかったことでしょう
どうぞ、この写真から“今治造船の原点”を感じてみてください。
2-2本庄正則と宇賀神社の絆
「助けられたご恩は忘れるな、そして誰かに返そう」
ここには、なんと伊藤園の創業者・本庄正則さんからの手紙があります。
是非、お手紙をお読みください
伊藤園と言えば宇賀神社、宇賀神社と言えば伊藤園宇賀神社内には本庄という玉垣が多くあることを知っていますか
お願いやお頼みしたいことがあれば是非宇賀神社へ詣りに行きましょう
神社の中にある拝殿に上がり、願い事やお頼み事を唱え、ご芳名帳に自身の住所やお名前をご記入してください
必ず宮司さんが御祈祷してくださいます
2-3大亀孝裕の精神
「常識にとらわれるな」
ここには、ダイキ創業者・大亀孝裕(大亀孝裕をクリックすると色紙に)の色紙も飾られています
色紙を見るとびっくり、びっくり
恐れ多くも愛媛県体育協会会長をされ、愛媛県商工会議所連合会会頭もされた上の上の人ですよ
見てください、大亀の亀はじゃないですか
ハンコをよく見ると、えっ、ええっ、びっくり、びっくり、びっくりの3連発、自分の顔でした
いいですか、大亀さんの精神、それは常識を疑えです
ホームセンター内に産直市を作ったり、100円ショップを作ったり、誰も考えられない発想力、行動力ごめんなさい、もう降参です
あなたのすごさにはかないません
でも、若いギャルにこの色紙を見せると、まあっ、可愛いいとなかなかの評判でした
2-4細川英道と人々を導いた教え
「助けられたことは御恩は忘れず」
周布・密乗院の住職から、真言宗醍醐派管長へと上りつめた細川英道さんの貴重な書が展示されています
吉本米蔵が細川さんの学資等(真言宗連合京都大学への学資や生活費)を出したことから細川さんの道が切り開かれていきます
あるとき、大僧正の位のまま、小さな寺である密乗院の住職を続けられいるのか疑問に思ったある人が細川さんに質問しました
「それは御恩を受けたからです。御恩を受けたから帰ってきました」
誰から御恩を受けたのでしょう
この米蔵門に細川さんの書を飾ることは必然のように思われます
Q1. 見学は予約が必要ですか?
はい。ゆっくりご覧いただけるよう、事前にお電話でのご予約をお願いしております。
お手数をおかけしますが、スムーズなご案内のためご協力ください。
Q2. 入場料はかかりますか?
ご安心ください。入場は無料です。
どなたでも気軽にお越しいただけます。
Q3. 団体での見学はできますか?
申し訳ございません。
展示のご案内を担当者ひとりで行っているため、団体での対応が難しくなっております。
お一人ずつ、または少人数でのご来場をお願いできれば幸いです。
オリンピック金メダリスト
田口信教
田口信教は1951年6月18日、壬生川町国安で生まれる。田口が選んだ壬生川町立西中学校には、プールはなかったが、石原和夫は新池をプール代りとし、水泳部を作っていた。田口は水泳部に入りめきめき才を発揮する。中学2年生の時、全国中学生選抜水泳大会100m 平泳ぎに出場し、3位入賞を果たした。それを契機に日本そして世界へと飛躍していく。オリンピック3度出場した田口の水泳人生の始まりは、この新地からである。

新池物語
1960年代前半、壬生川町立西中学校区の全学校にプールはなく、子どもたちは海、川そして池で泳いでいた。この新池をプール代わりに利用し、水泳部を作ろうと考えた男が現れる。壬生川町西中学校教諭・石原和夫その人である。
その当時の歓声が聞こえてきそうだ。
「そりゃあ、跳び込んで、潜れ、潜れ!!」
「よっしゃあっ、潜るぞー!!!」
次々と水泳部員が跳び込む。その中に田口信教もいた。しかし、残念なことに、ここはプールではない。ターンができない、記録が測れないそれでも全国に挑戦した。
1965年8月20日、中学2年生だった田口は全国中学生選抜水泳大会100メートル平泳ぎ3位入賞。それを契機に、尾道そして世界へ旅立った。
1968年、メキシコオリンピック世界新を出すが、泳法違反と言われ失格する。挫折だった、お祭り気分ではなかった。しかし、地元の人たちの温かい思いでパレードが予定されている。参加せざるを得ないパレードが始まるまで時間待ちをしていた時、一台の車が止まった。

「おい、そこのオリンピック選手、首にメダルはないんか」とだけ言って立ち去っていく。田口は手が震え出し止まらない。そして心の中でつぶやく。「ここで負けたらだめだ、次こそ絶対メダルを取ってやる」
それから4年が経った。
1972年8月30日、ミュンヘンオリンピック100メートル平泳ぎで決勝が始まる。50メートル折り返し地点では7位だった。日本中のため息が聞こえてくる、もうだめだと。しかし、感動のドラマが始まる。後半ラストスパート、抜く抜く抜く、残り25メートル、ついに先頭をとらえる。そして逆転その世界新記録、金メダル獲得。
この新池こそが一人の少年に輝かしい未来を約束させた。
■田口覚(父親)
「いやなことをされても人を恨んではいけません、くそーっ、と思って見返すよう努力したらいいんです」
■田口芳乃(母親)
「最初のオリンピック(泳法違反で失格)で挫折し、次のオリンピックで頂点に立ち、最後のオリンピック(予選落ち)で屈辱を味わいました、最初と最後のオリンピックのおかげで人の痛みがわかる人間になれたと思います」
■田口信教
「日本で一番高い山を知っていますか?では、二番目に高い山は、・・・だからこそ勝負は勝たないと、一番出ないといけないんです」
読売ジャイアンツ2塁手
千葉 茂